中崎インタヴューズ #1「中崎淳とは何者か」

「自分のことなのに他人の言葉で自分を評価してしまう。これはまずい。自分で、自分はどうなのかを考え、疑わないといけない」――新進気鋭の若手作家・中崎淳の素顔に迫ったインタヴューです。


――早速ですが中崎先生、文学に目覚めたきっかけはなんでしょうか。

僕はそんな大したきっかけというのは無いんですけど、とにかく本を読むのは好きでしたね。


――なるほど。では、ただ「本が好き」に留まらず「本を書こう」と思ったのはどうしてですか。

それもこれといった動機がはっきりあるわけではないんですけど、まあ人よりは文章が書けるかなって思ったんですかね。そんな感じで、できることや好きなことで仕事していければそれに越したことはないし、趣味にもなりますし。


――中崎先生は作家として活動する傍ら、高校の教諭としても勤めていらっしゃいますよね。

作家は“生き方”ですからね、職業じゃない。高校の先生って正直暇だと思ってたんですよ、僕が高校生くらいのときには。でも実際はそうでもなかった。


――でも、こうして講演活動などを全国でされていますし、自由な時間もわりと多いのでは?

そうですね、割と暇っちゃ暇かもしれないですね(笑)


――どっちなんですか(笑)

いや、これはつまりね、上っ面なこと言ってもいいんですよ、内面がしっかり充実していれば。これを自己弁護と言いますね。

――確かに。中崎先生は大学ではかなり文学研究に没頭したそうですね。

まあみなさんご存知だと思いますが、僕は大学は早大文学部の日本文学コースっちゅうところにいたんですね。そこで当然日本文学、特に近現代のものを専攻してたわけで、人よりは日本の小説をたくさん読んだのは間違いないですね。そこでは普通の小説も、なんか「うえっ」っていう感じの小説も読んでね。


――「うえっ」って感じの小説とは(笑)

だから難しいやつですよ、何書いてんのかよくわかんないやつ(笑)。それでまあまあ、僕も一応国語教師の端くれなんでね、何か皆さんに言えることがあるかなって思って考えてみたんですけど、やっぱりまとまった文章を読むのが大事ですね。


――それはなぜでしょう。

まとまった文章を読むというのはね、つまりある本を一冊通して読むということですね。今はだいたいどんな本も、例えば新書なんかでも一冊で200ページくらいはあるじゃないですか。200ページの文章を書こうと思ったら新聞のように事実を並べてるだけじゃ書けないですよ。つまりね、皆さんもやったことあると思うんだけど、読書感想文を書いてるときにあらすじだけ先に書いてね、それに「ここが良かった」とか「ここが好きでした」とか、わけの分からない感想をつけるじゃないですか。いや、わけの分からないという感想はともかくも、そういう風に書けって言われるじゃないですか。小説も新書も、特に新書なんかは事実だけで書かないと本当はいけないんだけど、事実だけを書いてたら200ページになんかならないから。もっと言っちゃえばそれじゃお金になんないから、何か増やすんですよ。「こういう考えはどうだろうか」とかいう形の疑問提起としてね。それはつまりある人間、この場合は作者のことですが、その人間の意見や考え方の“流れ”というものを通して読むことで本当の読解力というのは身につくと思うんですね。


――本当の読解力ですか。

そうです。本物の、正真正銘の読解力です。小説なんかでも一人の人間が書いたわけの分からない話を、わけの分からないまま読まされる、そして最終的に読み終わっても、やっぱりよく分からなかった。それでも一人の人間が書いたまとまった文章を読むというのがとにかく大事なんですね。細かく、ちょん、ちょん、ちょんってね、いくつも読むっていうのは誰が何考えて書いたのか分かんないですから。それこそ最近は、なんていうんですかね、コミュニケーション能力とでも言うんでしょうかね、いわゆる言語能力ですね。相手の話を聞いて、相手が何を言おうとしているのか、或いは、何を言ったのかを読み取る力が決定的に足りてない。それは当然それに伴う形で想像力も欠如していきますから、安易に海外に行こうとするんですよね。


――海外渡航と関係があるんですか。

海外に行かなくてもできることをね、海外に行ったらできる、と思い込んでしまうですよ。でもそれは本当は海外に行ったらできるわけじゃないんですよ。だからとりあえず行って、それでできなくて帰ってきて、周りの友達からは「すごいね、海外行ったんだ」とチヤホヤされてですよ、結果として何にもしてないのに「私ってすごいんだ」と思い込んでしまう。これはもうしっちゃかめっちゃかですよね。自分のことなのに、他人の言葉で自分を評価してしまう。これはまずい。自分で、自分はどうなのか、ということを考えないといけない、疑わないといけない。


――なかなか深い話ですね。

自分を客観的に見るということ、これを常に意識しないといけないですよね。


――ところで中崎先生は少女漫画がご趣味だそうですね。

ええ、まあ。


―ちなみにどういった少女漫画をお読みになるんですか。

今一番ね、いや今っていうかもう僕の中ではバイブルみたいな少女漫画があって、これは『僕等がいた』(©小学館)という少女漫画なんですね。もう10年ぐらい前の漫画なんですけどね、これ泣けますよね? すごい泣けますよね? 泣けるんですよね。だから僕は泣ける漫画が好きっちゅうことですね。

――漫画が趣味といえばなんだか遊んでいる感じですが、中崎先生は外国語も堪能なんですよね。

一応、英語とイタリア語、スペイン語あたりはもう母語みたいなものですね。あとはアラビア語とフランス語を少しやってますがこちらは日常会話程度でしょうか。まあ語学は決して趣味ではありません。言葉なんて誰だってやればできますから。


――どこかの予備校のCMみたいな感じですね(笑)

そうですね(笑)。確かに某予備校の先生が「英語なんて言葉なんだ、誰だってやればできるようになる」って言ってましたけど、実際のところその通りだと思いますよ。要はただの理屈ですから。つまり英語を勉強するなんていうのは簡単にできるんですよ。じゃあ英語で何を喋るのかっちゅうのが、これはまた難しいんですね。


――英語を使って何を語るのかということですね。

そうそう。これは頭の中で考える言語が日本語な以上、当然のことなんですね。まあもしも「思考言語はフランス語です」なんていうオシャレな人がいたら話はまた別ですけど、やっぱり日本語で考える水準が深くなかったら、英語で何言ったって出てくる言葉は浅いわけで、深い話ができるわけないし、活発な議論も期待できないんですね。つまり大切なことは、普段から日本語で深くしっかり考える。本当にこれは正しいのか、と常々深く考えている人が英語を話して初めて有効な文になるわけですよね。だからね、ただコミュニケーションとれるくらいの語学力だったらね、わざわざ留学とかいちいち勉強しなくても誰だってできるわって話でね、そんな大したことじゃないんですよ。だからね、僕の個人的な好みを言うとね、


――少女漫画のですか?

違う違う、みなさんそれは興味ないでしょう(笑)。でね、僕が言いたいのはね、「英語を勉強するために」というのは良くないと思う。英語の本読んで勉強するならね、僕の小説を読んでまず日本語の勉強をしてくださいっていう話ですね(笑)


――おっしゃる通りですね。これからも創作活動頑張ってください。

はい、ありがとうございました(笑)


※本インタビュー及び講演会は「メディアあさひかわ」5月号にも掲載されております。

鳥瞰集団_ChokanAssociation

鳥瞰集団は日本の文学シーンを憂う若者によって運営される大正ロマン復興のためのAssociationです。

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